freeze と please

夕方、居間のテレビから、子ども向けの英語番組が流れてきた。番組の締めくくりは、単語を正しく聞き分けられるかのクイズ。この日は「正しく『please』と言っているのはどれかな?」だった。

読み上げられた単語は、「please」「prince」「freeze」の3つ。ドキリとした。29年前のあの事件を思い出した。

米国のルイジアナ州で起きた日本人留学生射殺事件。交換留学生として当地にホームステイしていた高2のH君が、ステイ先の高校生と一緒に間違って訪れた民家で銃撃され、命を落とした。H君らはハロウィンパーティーに参加するため仮装しており、不審者に間違えられやすかったという事情もあった。しかし、銃口を向けた男の発したある言葉をめぐる、不幸な行き違いを指摘する声が、当時あった。

「freeze(動くな)」。銃口を向けた男は、そう発した。しかし、被害者、特に日本人であるH君は「please(中へどうぞ)」と聞き違えたのではないか、という指摘だ。

相手は銃をこちらに向けているのだ。H君はそれを見ている。聞こえてきた英単語だけで状況を判断したわけではないはずだ。とすれば、この説は妥当しないような気もする。ただ、「一つの単語の聞き間違いが、死に直結する」というストーリーに、当時大学生になったばかりの私は戦慄した。

時は流れて。父となった私は、件の番組を中1の息子と観た。父は「freeze」と「please」を聞き分けられなかった。「やはり…」。29年前のあの事件が、トラウマのように頭の中をめぐった。その少し後で、息子が即座に「freeze」を言い当てた。

29年ぶりのほの暗い思索にどんよりと沈み込んだ私を、息子が少し救ってくれた。

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新型コロナについて今、知っておくべきこと

「ダイヤモンド・オンライン」が、WHO事務局長上級顧問を務める英国キングス・カレッジ・ロンドン教授の渋谷健司医師に聞いたインタビューを記事にしています。とても分かりやすく、論理的で、私たちが現時点で認識しておくべき内容が網羅された素晴らしい記事です。

できるだけ多くの方の目に触れるよう、ご一読された方がそれぞれのツール、媒体で拡散されることを願います。

【記事=渋谷医師のお話のポイント】

1)新型コロナに対する緊急事態宣言は出たが、日本の場合は自粛ベースで効果が薄い。欧米ほど在宅勤務は増えていないし、飲食店には依然として人が集まっている。

2)日本政府は都市封鎖(ロックダウン)は不要と言っているが、それで「80%の接触減」は不可能。ロックダウンは、「絶対に外出禁止」というイメージがあるようだが、必ずしもそうではなく、さまざまなやり方がある。ロックダウン中の英国も同様に外出禁止を強制することは困難で、罰則といっても騒いでいる人がいたら警官が注意をする、それでもひどかったら30ポンドの罰金。その程度。それでも人々は外に出てはいけないと認識していて、それを守っている。みんな危機感を共有しているからだ。

3)現在のような「外出の自粛」をベースとした緊急事態宣言によって、2週間で感染者数がピークアウトするとはとても思えない。

4)これまでPCR検査数を抑制し、クラスター対策のみを続けた結果、市中感染を見逃し、院内感染につながっている。今まさに院内感染から医療崩壊が起き始めている。国は検査数を増やせば感染者が外来に殺到して医療崩壊が起こると言っているが全くの逆で、検査をしなかったから市中感染を見逃し、院内感染を招いている。

5)緊急事態宣言の効果に疑問が残り、ロックダウンもしない日本では、感染拡大は止められない。ロックダウンのような社会的隔離政策を取らなければ、その先にあるのは、医療崩壊。感染者が急増して軽症も含めた患者が殺到し、医療のキャパシティーを超え、重症患者を救えなくなる。また院内感染などで医療提供側が医療を行えなくなる。病院が閉鎖されると救急も閉鎖され、新型コロナ以外での死亡者数が増えていく。

6)もちろん、医療と社会の崩壊を目の当たりにして、ロックダウンに踏み切ったら経済はより甚大な被害を被る。それでも多くの国がロックダウンをやっているのは、後にすればするほど、被害は甚大になることが分かっているから。だから、早期のタイミングでやると決意した。

7)ロックダウンはやるかやらないかではなく、やるしかないということ。本来であれば4月初めにロックダウンすべきで、今からやっても遅過ぎるが、やるしかない段階。

8)スウェーデンなどの一部の国はロックダウンせずにうまくやっていると評価するメディアがあるが、欧州はもともと在宅勤務がすごく進んでいる。ロックダウンしなくても家にいるわけだ。日本はあれだけ自粛しろと言われていても、在宅勤務は9%しか増えていないといわれている。欧米各国とは働き方などが比較にならない。

9)市中にどれだけ感染者がいるか、院内感染をどうやって防ぐかが今は最も重要。このパンデミック(世界的流行)はすぐには終わらない。数週間、数カ月間で終わるはずはなく、終息には年単位の時間が必要。人々はウイルスと共生する新しい生活に慣れていくしかない。全く外に出られないというものではない。今までの常識が通用しないということ。

10)国としてまずやるべきことは三つ。一つ目は政府の指揮系統をはっきりとさせる。今は官邸や危機管理室、専門家会合、厚生労働省などバラバラ。二つ目は、検査数をしっかりと増やす。三つ目は医療従事者への防護服の配布を徹底して、彼らを守ること。医療が崩壊したら日本社会は持たない。

11)個人としてできることは、今はとにかく外出をしないこと。そして、よく手を洗うこと。いわゆる「3密」を避けることも有効。運動は距離を保てれば1日1回程度なら全く構わない。よく寝てよく食べて運動する。やれることはそれぐらいだろう。

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不要不急の新聞

私が購読している新聞は、学校への一斉休校要請など、新型コロナウイルスの感染抑止が社会問題化した今月初めから、ページが減った。新聞社の説明を総合すると、「感染拡大防止の要請を受け、各地でイベントが中止、延期となっており、紙面を埋めるニュースコンテンツがない」ことが、その理由のようだ。

センバツ高校野球を例に引くまでもなく、各地で開催されるイベントは確かに少なくなっている。しかし、そのために「紙面に載せるニュースがない」と言い切ってしまう新聞社に、私は驚いてしまう。

ニュースは未知の新型コロナウイルスであり、「どにかく、やった感」の演出=パフォーマンスの色が濃い一斉休校措置に振り回される全国の子どもとその家族の憤りであり、高齢者や基礎疾患を持つ人の不安であり、収入や客を突如奪われた人々の苦悩であり、…。マスメディアが今こそ伝えねばならないニュースは、あふれこそすれ、減ってなどいないはずではないか。

人々が知りたがっている世の中の出来事を調べ、分かりやすく伝える仕組みとして、新聞がきちんと機能できなくなった、ということなのかもしれない。地域のイベントをただ「ありました」と伝えることはできる。でも、それらがなくなってしまえば、途端に「品揃えが出来ません」と言い出す商売のようだから。

コロナの感染拡大を防ぐために〈新聞記者も出社の人数を減らす→新聞社として毎日の新聞の紙面を減らす〉というのならば、評価できるし、歓迎したい。しかし、少なくとも私が購読している新聞の今回の紙面削減は、どうもそういった理由からではない。先述の通り「紙面を埋めるニュースがない」というのがその理由なのだ。だとすれば--。

私が購読している新聞は、自らが「不要不急」の存在であることを、図らずも証明した、のだろう(事務員)

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「酒席で人脈を作る」考

西日本新聞の夕刊に毎月掲載されている、いきものがかりの水野良樹さんのエッセー「そして歌を書きながら」。3月12日付は、酒席で仕事の人付き合いを深めていくことについて、書かれていました。

私は12年前、息子の大病が分かった際、願掛けでアルコールを口にしない、と決めました。私が長年就いていた職種は「相手と一緒に酒を飲んで関係を深めてこそ、いい仕事ができる」という考え方が昔から強く言われている業界。当然、酒席に一切赴かない私は、極端に言えば「仕事をきちんとしていない人間」に等しい評価となりました。それでも、私は息子や家族と一緒にいる時間を極力確保すること以上の優先事項は、今の自分にはない、と確信していましたので、職場でそんな変人ぶりをずっと通してきました。

私は下戸ではありません。好きな仲間と、お酒を飲んではしゃぐことは、元々大好きな人種です。ただ、家族の事情で、ひょんなことから禁酒生活を選んだだけです。でも、元々「仕事上の付き合いに過ぎない相手と、だらだらと酒杯を重ねて時間を無為に費やす」ことに率直に、無駄というか、理不尽さを感じていました。なので、今のこの状況は、息子のことがなくても早晩、そうなっていたことなのかもしれません。

そんな折、水野さんのこの文章を読みました。ベースの考え方は大いに意を同じくする感じ。少数派の肩身の狭さも、少し気を軽くしてもらえた気分です。皆さんは、どのようにお読みになるでしょうか (事務員H)

以下に、全文を引用します。

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昔よりも酒を飲まなくなった。もともと強くはない。ビールを1杯飲めばすぐに顔が赤らみ、ひとときは陽気になって冗舌になるが、そのうち眠気をもよおし、盛り上がっている宴席で眠りだしたり、帰りたいという気持ちを顔に出してしまったり、その場の楽しさに水を差すような存在になってしまう。

 一応これでも大人だから、失礼のないようにしたいし、酒席の興を遮るようなことはしたくないと頑張ってはみる。だが、そんな理性みたいなものこそ酔いによって崩壊しているので、最後には本心がダダ漏れとなり「なぜこんなに夜遅くまで酒好きに付き合わなきゃいけないんだ。なぜ飲めない自分がそちらの常識に合わせないといけないのだ」としまいには怒りにも似た感情があふれ出てきてしまって、険悪なムードをつくってしまうこともある。

 だからそもそも酒席を避けるか、最近では飲食店でもノンアルコールビールを用意してくれていることが多いのでそれを頼み、冒頭の乾杯だけは場の空気に合わせ、あとは頃合いの良いところで正直に「そろそろ」と提案することにしている。

 無理に付き合うことはやめた。というか、こちらが飲めないことを知っているのに、それでも怒りだすような相手ならたぶんいずれにしても長くは付き合えないだろう。向こうだって「俺の酒が飲めないのか、つまらないやつだ」と思っているだろうから、やはりウマが合わなかったということで致し方ない。

 20代の頃は先輩方にごちそうしていただいて礼を欠いてはいけない立場だったことも多かった。何より体力があったので無理をしてでもついていった。だが30代に入ると人付き合いでの諦めのようなもの、線引きのようなものをしてしまうようになった。

 自分はもう、一部の酒好きの皆さんが掲げる「社会常識」には適合できる気がしない。それで何か損をするのならもう致し方ない。甘んじて受け入れる。芸事の世界には先輩たちから頂いた恩を下の世代に返すという慣習があるが、自分は酒ではないかたちで後輩たちに何かを返そうと思う。

 社会に出て十数年がたって、少し思ったことがある。若造がただ生意気になっただけなのかもしれないが、下戸の一意見と思って聞いてほしい。

 やはり、こと仕事の話において「腹を割って本音で話そう」という場は酒席であるべきではないと思う。特に自分より上の世代の男性に多い印象があるが、仕事上でトラブルがあったり深い議論を必要とする出来事があったりするとすぐに「一度飲みに行こうよ」と言いだす人が結構いる。にんまりと笑顔をつくり、こちらの肩に手でもかけてきそうな距離感で「酒を酌み交わしながらゆっくり話せば分かるよ」と言うのだが、これが下戸からすると理解できない。

 率直に言えば、酔いで理性を外さなければ仕事の本質的な部分について語れないのは仕事人として駄目だと思う。…などと仏頂面で元も子もない正論を吐くと「そんな固いこと言うなよ。分からないやつだな」と酒好きの皆さんの声が今すぐにでも聞こえてきそうだ。

 なかなかどうして、分かり合うのは難しい。本音を言えば酒好きのペースですべてを進められたくないのだ。下戸には下戸の戦い方があるし、人との向き合い方がある。それもまた人それぞれか。

(2020年3月12日付西日本新聞夕刊に掲載のエッセー連載「いきものがかり水野良樹の そして歌を書きながら」より)

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森達也さん

少しだけお話ししたことがある、映像監督・作家の森達也さんの、最近のツイッター投稿から。

2月27日……「安倍はひどいけれど変わる人がいない」との声に対して、「サルが電車の運転席に座っていたら、変わる人が誰かを決める前にとにかくサルを運転席から引きずり下ろすだろう」と、誰かが以前に書いていた。至言だと思う。

なるほど。おかしい、ひどい、間違っている、と言わなきゃならない時に、それ以上の理屈もロジックも要らないんだ、とあらためて気づかされました。

話はそれてしまいますが、「電車」「サル」「運転士」と聞いて、私は小学校だったか中学校だったか、昔、国語の教科書に載っていた「車掌の本分」という話を思い出しました。かんべむさしさん作の。私の年代の方なら、結構そうなんじゃないでしょうか。

遊園地のおさる電車。その運転士と車掌を務めるのは2頭のサル。人気のアトラクションとなり、その車列はぐんぐん伸び、やがて最後尾が先頭車両のすぐ前にまでくるようになり…という話。

要は、「矜持」って、そこだけは絶対譲れないものなんだ、ということ。小中学生相手にはまだちょっと理解が難しいかもしれないけど、このかんべワールドを教材に選ぶなんて、この一点に関しては少なくとも、文科省もなかなか素敵だと私は思います。あるいは素敵「だった」ということなんでしょうか(事務員H)

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コーヒー・カンタータ

西日本新聞の夕刊に、ピアニストの清塚信也さんのエッセーが掲載されていました。

清塚さんは最近、いろいろなメディアで、本業の音楽以外にも幅広く活動されているようです。でも私はやはり、プロの立場でクラシック音楽の世界を素人に分かりやすく、ただし情熱的に紹介する「案内人」として、彼はすごく輝いているように思えます。

清塚さんのことを好きだなぁと思ったのは、数年前。

テレビ番組でクラシック理論をとうとうと語った最後に、「でも、こんな理屈はまったく抜きに、ただ触れるだけでも音楽は味わえますし、楽しめます。そこのところはどうぞ本末転倒にならないでいただきたい」という趣旨のことをおっしゃった時。音楽の素人を馬鹿にせず、「一緒に楽しみましょう」と、その仲間の輪の中に招き入れてくださっているかのような気持ちになりました。

前置きが少し長くなりました。清塚さんの音楽語り、以下に、全文を引用してご紹介します。

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  タピオカの人気はすごいものがあった。

 ニュースやワイドショーでは、タピオカ店にできる大行列を映したりして、ひっきりなしにその人気ぶりを報道していた。「女子高生のガソリン」だなんて比喩している私の友人もいたが、いやいや、今やタピオカは子どもから中年男性まで幅広い人気を見せている。ある男性サラリーマンは、そのカロリーの高さと手軽さを利用して、タピオカを朝ご飯代わりにしていると話していた。

 「音楽の父」バッハが活躍した18世紀にも、一世を風靡していた飲み物がある。コーヒーだ。

 バッハは50歳になろうかというころに「コーヒー・カンタータ」という喜歌劇を作曲した。

 コーヒー好きな若い娘が、父親にコーヒーをやめなさいとひたすら言われ続けるが、娘は断固としてやめない。あんまり言うことを聞かない娘にしびれを切らした父親は「コーヒーをやめないなら結婚させない」と強攻策に出る。

 「それだけはご勘弁を」。ようやく観念した娘だが、最後に心の声が。「コーヒーを飲ませてくれる相手と結婚しよう」

 こんな落語のような楽しい歌劇を、あの保守的なバッハが作曲したのかと思うと、なんだか妙にうれしくなってしまう曲である。

 当時のヨーロッパではコーヒーとコーヒーハウスが大流行しており、コーヒー依存症が社会問題となっていたそうだ。

 そんな時事ネタのような曲をバッハが作曲したのは珍しいことだが、内容はやはりバッハで、割と真面目な曲想になっている。コーヒーをやめるかやめないかの父娘ドタバタ劇を、大真面目で宗教的な曲想でやるので、だいぶシュールな世界になる。

 私はこれを聴くといつもそのアンバランスさに笑いが込み上げてくるのだが、果たしてバッハはその笑いを狙ったのか否か。

 恐らくは狙っていないのだろうけど、もし狙っていたのなら、“キングオブコント”に出られるくらい笑いのセンスもあったことになるかもしれない。

 私も「タピオカ・カンタータ」という小さな喜歌劇でも作ろうか。

(2020年2月20日付西日本新聞夕刊に随時掲載のエッセー連載「音楽シナプス」より)

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いきものがかり水野さん

西日本新聞の夕刊に、いきものがかりの水野良樹さんが書かれたエッセーが月に1度、掲載されています。11月は6日付で掲載されていました。

崎山先生は、水野さんと出身の大学が一緒ということもあって、毎回、この連載を楽しみにされているみたいです。6日付の回は、タイトルが「愛犬に癒やされる」となっていたので、犬好きの崎山先生としては、なおさら目にとまったようです。

私も読みましたが、一応、人の親のはしくれをしているからでしょうか、

〈実家の両親の言葉に助けられた。彼らは「寝ているか?」「食えているか?」という2点に集約される質問しかしない。〉

というところに、グッと鼻の奥に熱いものを感じてしまいました。さだまさしの「案山子」にある「元気でいるか 街には慣れたか」にも通じる、子に対する親の愛。

崎山先生は、以下の部分に、共感されたみたいです。

〈人間社会は複雑だ。誰だって名前があり、ときに肩書があり、ときに役割がある。「あなたはあなたのままでいい」と言われても多くの場合、字面通りには受け取れない。たいがいは互いにとって都合の良い、期待される関係の節度があり、それを逸脱しないことが暗黙のうちに了解されている。やはり法を犯しては駄目だし倫理を侵しては駄目なわけで、すべてを許し、存在そのものを肯定することは社会のしがらみの中でしか生きられない人間にとって、深い愛や覚悟を試されることで、簡単ではない。〉

少し長いですが、以下に、全文を引用してみます。

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 犬をなでているとき、こちらもまた、犬になでられているのだ。いや、別に何か哲学的なことを言おうとしたわけではなくて、かわいい犬をなでることは何にもまして心癒やされることだなと、ただそれだけのことだ。

 締め切りに追われて夜深くまで作業をする日々。作業を切り上げて家族もとっくに寝た後の誰もいないリビングに戻ると、あおむけになって腹をこちらに差し出し「ほれ、なでろ」と言わんばかりの犬の姿がそこにある。

 「しょうがないなぁ」と言い訳のように一言つぶやいてから、わしゃわしゃと手でなでてやると気持ち良さそうな顔をして、やがて目をつぶり眠ったような顔をするから余計にいとおしい。心情の部分ではまったくどちらがなでられている側なのか分からない。少なくとも作業の疲れは和らぐ。彼の存在は忙しい日常の中で安らぎだ。

 間に言葉がないから良いのだろうか。面倒な論理も込み入った利害関係もない。いや、犬の側からすれば、餌とか散歩とか、彼にとっては重要な利が飼い主のうしろ側に見えていて愛嬌(あいきょう)を振りまいているのだろうけれど。

 でも、そうかと思えばこちらがため息をついているようなときに限って、いつもより近くに寄ってきて甘えるようなしぐさを見せてくれたりする。気持ちが分かっているのかな、と都合よく解釈するけれど、それが合っているかどうかは別にして、何か精神的なつながりが犬との間にあるのだと感じられる瞬間はいとおしいものだ。

 人間社会は複雑だ。誰だって名前があり、ときに肩書があり、ときに役割がある。「あなたはあなたのままでいい」と言われても多くの場合、字面通りには受け取れない。たいがいは互いにとって都合の良い、期待される関係の節度があり、それを逸脱しないことが暗黙のうちに了解されている。やはり法を犯しては駄目だし倫理を侵しては駄目なわけで、すべてを許し、存在そのものを肯定することは社会のしがらみの中でしか生きられない人間にとって、深い愛や覚悟を試されることで、簡単ではない。 

 なんだか大きな話になってしまったけれど、デビューしてグループの名が知られ始めた頃、それ以前よりも、活動を助けてくれる関係者が増えていく時期があった。それは幸運な物語だったが、その一方で「もし自分が良い曲を書けなければ、この人たちは去っていくのか」と不安に駆られたことがあった。

 プロだから当然だ。あくまで能力に引かれて人が集まり、人間関係ができる。それは職業人として向き合うべき現実でもあったが、そんな頃、実家の両親の言葉に助けられた。彼らは「寝ているか?」「食えているか?」という2点に集約される質問しかしない。

 要は自分が良い歌が書けなくても、自分が生きていることを許してくれているわけで、そんな大げさなとは思うかもしれないが、これは音楽を仕事とする人生の中では支えとなった。

 毎日、テレビの中で誰かが謝罪している。仮に自分が過ちを犯してもこの犬は帰宅すれば変わらず尾を振り、自分を出迎えるだろう。理屈を外して受け入れてくれる存在はやはり尊い。そう思っていると、犬のうしろから息子も笑顔で駆けてきた。ああ、彼もだ。これが家族か。そう気付いて、彼らに笑い返した。

(2019年11月6日付西日本新聞夕刊に掲載のエッセー連載「いきものがかり水野良樹の そして歌を書きながら」より)

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芦部信喜知らずして

 残念ながら、西日本新聞夕刊に掲載されていた野田秀樹さんのエッセー連載「ゴーマンイング・マイウェイ!」は、6月26日付で最終回となってしまいました。最後は例によって、安倍首相批判。一国の首相としての素養に疑義あり、特に憲法に関して、あなたその程度の認識で憲法改正を語るの? と思っている私には、痛快に響きました。ちなみに、この文章の中に登場する学者、芦部信喜の話を、私は学生時代幸いにも、直接聞く機会がありました。法学部の学生なら、日本中の誰もが知る大家でありながら、平易に、おごらず、話をしてくださった記憶があります。

 以下、連載を引用します。

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 平安時代、藤原氏の荘園制の頃から、日本は「合法的に脱税出来た者たち」だけが私財を蓄え、わが世の春を迎えることができた。それが日本の歴史である。誰も税金なんか払いたくないのである。だが、税金なしで国は成り立たない。だったら、消費税というのは「より平等」な税金の集め方ではないか? という理由で私は、「消費税」がこの国に導入された時、隠れ賛成派だった。

 隠れていたのは、世をあげての消費税導入反対!ムードだったからだ。(実際は私「JJ」という雑誌で堂々と(?)賛成の意思表示をしたのだが)その時、様々な消費税反対の理由の中で私が笑ったのは、いずこかのマスメディアが「子供が百円玉ひとつを握りしめてお菓子を買いに行って103円て言われたら、可哀そうじゃないですか?」というものだった。笑えた。そういうレベルの話じゃない、ば~か、110円持たせろである。

 これととても似たものに、憲法を改正しなければならない理由の一つとして「子供に『お父さん、憲法違反なの?』と目に涙をためながら尋ねられたという話を、ある自衛官から聞いた」というのがある。ただこちらの方は笑えない。ば~か、じゃすまない。なぜなら発言の主は、いずこかのマスメディアではない、「美しい国」の首相だからである。この人、本当に何をどう考えて憲法改正と声高に言ってるのだろう。随分前になるが、予算委員会か何かで「芦部信喜(憲法学者)を知らない」と恥ずかしげもなく答弁した。「私は森羅万象のことで忙しいのだから、憲法学者の名前なんかいちいち覚えてないですよ」みたいなことだろう。

 もちろん普通は知らなくていい、その学者の名前を。だが私はあの首相とは同世代で、そして大学で憲法を真面目に学んだ人間としてはっきり言える。あの当時、芦部信喜を知らずして、一体どんな風に憲法を勉強したのか? いつどこで憲法を学び、いつこの憲法を美しくないと思い、どうして変えなくてはならないと思い始めたのか。

もしも野球のルールを改正しようと声高に叫んでいる人から「長嶋茂雄って誰?」と言われたらどうよ? え? 大丈夫? この人、本当に野球のこと知ってるの? こんな人にルール改正を任せていいの、なのである。ま、憲法学界の中で「芦部信喜」が「長嶋茂雄」という譬(たと)えでいいかは置いといて。とにかく憲法を学んだ人が「芦部信喜」を知らないはずはない。だからなおさら、「知り合いの子供がかわいそうで憲法を改正しよう」と本気で思っているのじゃないか?とさえ勘繰ってしまう…あ、慌ててウィキペディアで「芦部信喜」を検索するのはやめて下さい。 (劇作家、演出家、役者)

(2019年6月26日付西日本新聞夕刊に掲載のコラム連載「ゴーマンイング・マイウェイ!」より)

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言葉で戦争を止める

 5月29日付の西日本新聞夕刊に、劇作家野田秀樹さんの書かれた文章が載っていました。戦争と平和の問題。身構えてしまったり、感情的になりすぎたり、面倒くさがったりしがちなテーマですが、とても分かりやすく、的確に論じておられるように感じました。少し長いですが、以下に転記してみました。みなさんも是非一度読まれてみてください。そして考えてみてください。

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 自称平和主義者はどんな争いも話し合いで解決できると言うが、言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」と若者に問われたならば、どう答えるでしょうか? 私は自称平和主義者でもないし、どんな争いも話し合いで解決できるとは思わない。だが「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」の答えは知っている。…いきなりの大風呂敷で始まった。

 さて、先のコトバを語った若者というのは、クリミア半島をロシアに奪われたウクライナ出身の留学生である。紛争地域の若者のコトバだけに説得力はある。「甘いこと言ってんじゃねえよ、現実に紛争や戦争が起こってみな、大変なんだぜ」ということだ。気持ちはわかる。だが若者特有の極論的な問いかけだ。

 この発言は、憲法記念日の五月三日、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などが開いたフォーラムでのことだった。「アメリカに押し付けられた憲法は美しくない!」と情緒的に騒いでいる人々が、ウクライナの若者の力まで借りて、憲法を改正しようとしている姿はまことに美しい。

 そして「言葉では戦争を止められない」と言葉の無力を訴えてまで改正しようとしている「憲法」が、実は「言葉」の産物だという矛盾には、その「美しい国」の人々は気がつかずにいる。その姿もまたこの上なく美しい。

 「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」というこの言葉の裏にあるものは「言葉は無力で、結局戦争が始まったら『力』で、すなわち『軍隊』で立ち向かわなければならない。だから現行憲法のような弱腰の言葉ではなく、はっきりと『力』を行使する。と明記しろ」ということだろう。

 「憲法改正」どころか「戦争放棄の放棄」を訴えている。だが「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」の答えは意外にも簡単だ。「戦争をやめる」である。極論的な問いには極論的な答えでよい。1945年、日本は「玉音放送」という言葉で戦争を止めた。もちろんその前の「敗走つづき」と「二つの原爆投下」を受けての「玉音放送」だ。だが、戦争は「言葉」で止まった。時すでに遅かった。だからこそ、戦後もう一度、日本は永久に「戦争をやめる」ことを憲法で明言したのだ。

 ウクライナの若者の言葉も重いのだろうが、我々日本人もその昔、軽々しく「戦争をやめる」と言ったわけではない。自称平和主義者ではない。とことん戦争をしてとことん負けた民族だったからだ。自虐史ではない。事実史だ。(劇作家、演出家、役者)

(2019年5月29日付西日本新聞夕刊に掲載のコラム連載「ゴーマンイング・マイウェイ!」より)

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岩を穿つ(Pounding the Rock)

どうしようもない、という気になった時、 私は石切職人が岩を穿(うが)つのを見に行く。 もしかしたら、ハンマーを100回打ち下ろしても、岩には亀裂さえできないかもしれない。 でも次の101回目で、岩が真っ二つに割れることもある。 私は知っている。 岩はその最後の一撃で割れたのではない。 それ以前にコツコツと打ち下ろされた、あの一撃、一撃のすべてによって、砕かれたのだ。

ジャーナリストであり、社会問題を切り取る写真家でもあった、ジェイコブ・リースの言葉を引いて、米国プロバスケットボール、NBAの名将、グレッグ・ポポビッチは、選手たちに「堅実な努力」を説きます。彼が率いるチーム、サンアントニオ・スパーズは、20年近くにわたって常勝軍団であり続けています。

原文は、以下の通りです。

“When nothing seems to help, I go look at a stonecutter hammering away at his rock, perhaps a hundred times without as much as a crack showing in it. Yet at the hundred and first blow it will split in two, and I know it was not that blow that did it, but all that had gone before.”

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