言葉で戦争を止める

 5月29日付の西日本新聞夕刊に、劇作家野田秀樹さんの書かれた文章が載っていました。戦争と平和の問題。身構えてしまったり、感情的になりすぎたり、面倒くさがったりしがちなテーマですが、とても分かりやすく、的確に論じておられるように感じました。少し長いですが、以下に転記してみました。みなさんも是非一度読まれてみてください。そして考えてみてください。

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 自称平和主義者はどんな争いも話し合いで解決できると言うが、言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」と若者に問われたならば、どう答えるでしょうか? 私は自称平和主義者でもないし、どんな争いも話し合いで解決できるとは思わない。だが「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」の答えは知っている。…いきなりの大風呂敷で始まった。

 さて、先のコトバを語った若者というのは、クリミア半島をロシアに奪われたウクライナ出身の留学生である。紛争地域の若者のコトバだけに説得力はある。「甘いこと言ってんじゃねえよ、現実に紛争や戦争が起こってみな、大変なんだぜ」ということだ。気持ちはわかる。だが若者特有の極論的な問いかけだ。

 この発言は、憲法記念日の五月三日、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」などが開いたフォーラムでのことだった。「アメリカに押し付けられた憲法は美しくない!」と情緒的に騒いでいる人々が、ウクライナの若者の力まで借りて、憲法を改正しようとしている姿はまことに美しい。

 そして「言葉では戦争を止められない」と言葉の無力を訴えてまで改正しようとしている「憲法」が、実は「言葉」の産物だという矛盾には、その「美しい国」の人々は気がつかずにいる。その姿もまたこの上なく美しい。

 「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」というこの言葉の裏にあるものは「言葉は無力で、結局戦争が始まったら『力』で、すなわち『軍隊』で立ち向かわなければならない。だから現行憲法のような弱腰の言葉ではなく、はっきりと『力』を行使する。と明記しろ」ということだろう。

 「憲法改正」どころか「戦争放棄の放棄」を訴えている。だが「言葉によって戦争を止められるならばその言葉を教えて欲しい」の答えは意外にも簡単だ。「戦争をやめる」である。極論的な問いには極論的な答えでよい。1945年、日本は「玉音放送」という言葉で戦争を止めた。もちろんその前の「敗走つづき」と「二つの原爆投下」を受けての「玉音放送」だ。だが、戦争は「言葉」で止まった。時すでに遅かった。だからこそ、戦後もう一度、日本は永久に「戦争をやめる」ことを憲法で明言したのだ。

 ウクライナの若者の言葉も重いのだろうが、我々日本人もその昔、軽々しく「戦争をやめる」と言ったわけではない。自称平和主義者ではない。とことん戦争をしてとことん負けた民族だったからだ。自虐史ではない。事実史だ。(劇作家、演出家、役者)

(2019年5月29日付西日本新聞夕刊に掲載のコラム連載「ゴーマンイング・マイウェイ!」より)

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岩を穿つ(Pounding the Rock)

どうしようもない、という気になった時、 私は石切職人が岩を穿(うが)つのを見に行く。 もしかしたら、ハンマーを100回打ち下ろしても、岩には亀裂さえできないかもしれない。 でも次の101回目で、岩が真っ二つに割れることもある。 私は知っている。 岩はその最後の一撃で割れたのではない。 それ以前にコツコツと打ち下ろされた、あの一撃、一撃のすべてによって、砕かれたのだ。

ジャーナリストであり、社会問題を切り取る写真家でもあった、ジェイコブ・リースの言葉を引いて、米国プロバスケットボール、NBAの名将、グレッグ・ポポビッチは、選手たちに「堅実な努力」を説きます。彼が率いるチーム、サンアントニオ・スパーズは、20年近くにわたって常勝軍団であり続けています。

原文は、以下の通りです。

“When nothing seems to help, I go look at a stonecutter hammering away at his rock, perhaps a hundred times without as much as a crack showing in it. Yet at the hundred and first blow it will split in two, and I know it was not that blow that did it, but all that had gone before.”

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